妻の検査結果を待っていた二週間、私が何を検索していたかという話を別の記事に書きました。五つ挙げたうちの最後が「食事」でした。
あの記事では、正反対のことが同時に上位に並んでいた、と書いて止めました。混乱した話は別に書きます、とも書きました。これがその記事です。
先に言っておきます。ここに答えはありません。どちらが正しかったのかも書きません。十一年たった今も、私はそれを書ける立場にいません。書くのは、2015年11月から12月末までの約一か月半、私がどういう状態だったかということだけです。
「がん 食事」と入れた日
検索窓に「がん 食事」と入れました。それだけです。ほかに入れようのある言葉を持っていませんでした。
出てきた画面を、いまでも覚えています。上から順に読んでいって、三つ目か四つ目で手が止まりました。二つのページが、まったく逆のことを書いていたからです。
逆になっていたのは、大きく四つでした。
- 塩を抜くべきだと書いてあるページと、抜いてはいけないと書いてあるページ
- 動物性のものをやめるべきだと書いてあるページと、やめては駄目だと書いてあるページ
- 果物をたくさん摂るべきだと書いてあるページと、糖のあるものを減らすべきだと書いてあるページ
- 油を一切使うなと書いてあるページと、良い油は使いなさいと書いてあるページ
四つとも、同じ日の同じ検索結果の中にありました。
どちらかが極端に怪しく見えたなら、まだ楽だったと思います。そうではありませんでした。どちらのページにも理屈が書いてあり、どちらのページにも実際にやっている人の話が載っていました。読んでいるあいだは、どちらも通っているように見えました。
私はそれを、夜に、一人で読んでいました。日中に読む時間はなかったので、必然的に夜でした。読み終わっても何も決まらないので、また次のページを開きました。
本を買っても、同じことが起きた
インターネットが当てにならないのなら本だろう、と考えました。もともと本は読むほうだったので、この判断自体は自然でした。何冊か注文しました。
結果は同じでした。ただし、質の違う困り方をしました。
本は一冊のなかで筋が通っています。最初から最後まで、一つの考えで書かれています。だから読んでいるあいだは納得できます。読み終わったときには、それでいこうという気持ちになっています。
そのまま次の本を開くと、前の本が否定されています。しかもその本も、一冊のなかで筋が通っています。
検索結果は並んで見えるので、食い違っていることがひと目でわかります。本は順番に読むので、食い違いが時間差でやってきます。前の本で固まった気持ちが、次の本で崩れる。それを何度か繰り返しました。
どの本を読んだのかは、ここには書きません。書名を並べると、それを勧めているように読めてしまうからです。あのとき手元にあった本については、いつか別の記事で、いま読み返してどう思うかまで含めて書こうと思っています。
一つ選ぼうとして、選べなかった理由
調べていくと、名前のついた方法がいくつもあることがわかってきました。私が当時いちばん長く読んだのは、ゲルソン療法と呼ばれるものと、ナチュラルハイジーンと呼ばれるものでした。ほかにもいくつかありました。
それぞれの中身がどうだったかは書きません。私が書けるのは、どれも一つの体系として組み上がっていたということです。
これがいちばん厄介でした。体系として完結しているものは、部分的に借りることを想定していない書き方になっています。ここだけ守っても意味がない、全部そろって初めて意味がある、という前提で書かれている。読むと、そういう構造になっているのがわかります。
つまり、こういうことができません。
- 一つだけ試して、様子を見る
- 合いそうなところだけ取って、残りは置いておく
- 二つを並べて、どちらが良いか比べる
どれも、それぞれの本の書き方の中では認められていない進め方でした。全部やるか、やらないか。素人が自分で確かめる手立ては、どこにも用意されていませんでした。
だから私は、選ぶ前の場所で止まりました。どれかに決めれば動けたのに、決めるための材料が自分の中になかった。それが一か月半でした。
いちばんこたえたのは、献立が決まらないことだった
混乱していて何がつらかったかというと、気持ちの問題ではありませんでした。夕方になって、今日何を作るかが決まらないことでした。
買い物には行けました。台所にも立てました。以前、台所で働いていたので、手が動かないということはありませんでした。それでも決まりませんでした。
理由は、たぶんこうです。
レシピは世の中にいくらでもあります。けれど、目の前のレシピが、どの考え方の上に載っているレシピなのかは、書いてありません。塩を使うレシピを、塩を抜く前提で作り直そうとすると、味の設計が最初から崩れます。油を使わないと決めると、炒める工程が全部消えます。工程が消えると、そのレシピはもうそのレシピではありません。
そこで、また調べます。塩を抜いた場合の味の作り方を調べると、今度は別の体系の話に入っていきます。読み終わると、さっきまで作ろうとしていたものが、もう作る気になれなくなっている。
冷蔵庫の前で、何分も立っていた日があります。材料はあるのに、それをどう扱うかが決まっていない。決まらないまま時間が過ぎて、結局、いちばん考えなくていいものを作って出す。
しかもそれは、妻に出すものです。自分の分だけなら、決まらない日は決まらないままでいい。適当に済ませればいい。そうはいきませんでした。何を出すかを決められないというのが、あの時期のいちばん具体的な困りごとでした。
いま思うと、調べていた時間の大半は、献立を決めるための時間だったのだと思います。知識が欲しかったのではなく、今日の夕飯を決める根拠が欲しかった。それが手に入らないから、いつまでも調べていました。
それでも、一日に三回、食事の時間は来る
調べものは、いつ終わるとも知れませんでした。一方で、朝と昼と夜は、こちらの都合とは関係なく来ました。
結論が出るまで食べないという選択はありません。だから、決まらないまま何かを作って、食べていました。一か月半、それを続けていました。
この一か月半に、私は何も決めていません。何も始めていません。記録に残るようなことは一つもしていない期間です。
ただ、いま振り返ってひとつだけよかったと思うのは、混乱しているあいだも手は動いていたということです。頭のほうは止まっていましたが、台所には毎日立っていました。もしあの時期に台所から離れていたら、12月末に何かを始めることもできなかったと思います。
結局、決めたのは十二月の末だった
12月の末に、四つだけ決めて始めました。その四つが何で、最初の一週間に実際に何を食べたのかは、別の記事に全部書きました。
ではなぜ、一か月半も決まらなかったものが、そこで決まったのか。実は、あの一か月半で答えを出したわけではありません。十二月の末に始めたのは、そのときにできる四つのことでした。もっと厳格なやり方を知ることになるのは、年が明けてからです。その話は次の記事に書きます。
この記事で書きたかったのは、そこまでの一か月半のことです。
もし今、同じような画面を開いていて、正反対のことが並んでいるのを見ている人がいるとしたら。正しい読み方を教えることは、私にはできません。ただ、十一年前に同じ画面の前で一か月半止まっていた人間がいた、ということは書いておけます。あのとき私が知りたかったのは、そういうことでした。
